HRteamに新卒入社。 キャリアアドバイザーの経験を経てマーケティング事業へ異動。 アドバイザー時代にサービス立ち上げや人材開発、人事の業務に携わり、現在では「Digmedia」のメディア運営責任者を担っている。
自動車だけでなく、バイクや近年注目されている「ホンダジェット」と呼ばれる小型飛行機まで、製造しているホンダ(本田技研工業)。
ホンダの歴史的な経緯を中心に、現在の強みと弱みを解説します。
本田技研工業のIRを分析!
自動車の台数シェアでは世界7位、バイクでは世界首位。
経営方針も他のグループの参加に収まるのではなく、独自路線を貫く本田技研工業。
今回は「ホンダ」の歴史、IR分析、今後の戦略について解説していきます。
本田技研工業の歴史を徹底解説
はじめに本田技研工業の歴史を解説します。
本田技研工業の創業者である本田宗一郎氏は経営者としてカリスマ的な人気を誇り、関連する書籍だけでも数百冊に及ぶほど、ホンダだけでなく、日本全体に大きく影響を与えた経営者です。
詳しい経緯は本田技研工業の公式ホームページにある「語り継ぎたいこと」にも詳しく記載されているため、チェックしておきましょう。
創業期
終戦(1945年)の1年後、本田宗一郎氏は1台の発電用エンジンを見て「これを自転車に取り付けて動力源にしよう」というアイデアを思いつき、試作品を作り始めます。
これが、本田技術研究所の始まりとされています。
当時からホンダには資金があったわけではありません。
競合のトヨタ自動車は元々が豊田自動織機の新規事業ということもあり、ある程度は資金があったのに対して、ホンダは本田宗一郎氏の個人事業主からスタートしているため、かなりの苦労があったようです。
実際に試作品は家にあった湯たんぽを、とりあえず燃料タンクに活用したというエピソードもあるほど、創意工夫を重ねていました。
また、この自転車に動力源を取り付けた電動機付き自転車の開発に成功した後には、ある程度量産化をする為に、金型を作る必要がありました。
その時に金型メーカーに問い合わせをしたところ、当時のお金で50万円という大金が取られる。
しかも、「当時名も知られていないHondaなんか、大手金型メーカーが相手にしてもらえない」(磯部誠治氏 元ホンダエンジニアリング副社長)ということもあったため、なんとホンダでは自社内で金型を内製してしまったのです。
資金がない中スタートしましたが、技術力を武器にカバーしていきました。
(出典:https://www.honda.co.jp/50years-history/limitlessdreams/atype/index.html)
その後、 1948年には個人事業から株式会社化し、本田技研工業株式会社を創立します。
浜松の小さな町工場で自転車用補助エンジンの製造からスタートしたのが始まりとされています。
その後も様々な製品の開発を行なっていきます。
1953年:農機用エンジンの発売
1958年:大ヒットした小型バイク「スーパーカブ」を発売
など、様々な事業を行います。
ちなみに、この時にはまだ自動車の発売には至っていませんでした。
ライバルのトヨタ自動車は1936年には初の量産自動車「トヨタAA型乗用車」を発売していることから、当初はかなりの差がついていたことがわかります。
しかし、この頃から技術には非常に強いこだわりを持っていました。
実際に、1961年には世界的なバイクレースであるマン島TTレースを初優勝し、125cc・250ccクラス1位~5位を独占するという快挙を行います。
この実績によって 世界的にもバイクメーカーとして認められたのです。
また、ホンダは他のメーカーとは異なる行動に踏み切ります。
メーカーである本田技研工業(株)の中に研究開発部門を設けていましたが、それを独立させ(株)本田技術研究所を設立しました。
これはより自由な発想で研究開発に専念できるようにする目的でした。
このように設計や技術を重んじる姿勢が非常に強いのがホンダの特徴となります。
そして、 1963年には待望となる自動車の販売が開始されます。
軽トラックのT360に続いてスポーツカーのS500の発売となりました。
もともと、研究は1958年9月の時点から開始していました法改正などの影響もあり、急ピッチで自動車の研究開発を行い、実際に販売までこぎつけました。
さらに、その翌年の1964年にはF1に参入し、その翌年にはなんとF1メキシコGPで初優勝を果たしたのです。
当初のホンダの車は、バイクメーカーが作った小型自動車という印象でしたが、F1に参加して優勝を遂げてからは一気に乗用車メーカーとしても世界的に認められるようになりました。
このような出来事がきっかけとなり、現在でも日本で最もF-1に力を入れている自動車メーカーとなっています。
そして、1972年にはアメリカで施行された当時世界で最も厳しく実現不可能と言われた「排出ガス規制マスキー法」を世界で初めてクリアしました。
この時代はちょうど高度経済成長期であり、環境問題がクローズアップされているタイミングであったことから、さらにホンダの技術力が評価されるようになります。
そして、 1980年代に入ってくると、急速に海外展開を推し進めていきます。
実際に、現在の主力エリアである北米に現地の生産拠点を持つなど、海外展開を推し進めていきます。
さらに1988年、日本がバブル景気真っ只中に史上初となる、F1において16戦15勝という圧倒的な実績を残します。
これによって、世界的な自動車メーカーというブランディングがなされ、日本だけでなく海外でも順調は販売となっていきます。
その後は 2015年には小型航空機事業にも参入し、ホンダジェットが発売されます。
ここまでのホンダの歴史を振り返ると以下の点が挙げられます。
・本田宗一郎氏のカリスマ性
現在でも多くの社員が本田宗一郎氏の考え方を汲んだ業務の進め方。
・積極的な海外展開
特に北米で高い評価を得ており、収益も高い。
・スポーツカー、F-1に力を入れている
現在でもF1に参入しており、モータースポーツに力を入れる。
・航空機にも進出
ホンダジェットを発売し、プライベートジェット事業も行う。
決算状況を分析!
次に、本田技研工業でのIRの分析を行います。
まずは直近5期分の主要指標です。
注目すべき点としては、主には以下の2点です。
・売上は着実に上がってきている。
・2015年度の赤字(減益)の計上
まずは売上については、コンスタントにベースが上がっているかどうかをしっかりと見ましょう。
2016年度にかけて下がっている点はありますが、2013年度と2017年度を比較してベースがしっかりと上がっていれば、そこまで問題ではありません。
特に自動車メーカーの場合、主力新車の発売やリコールなどによって、単年だけ大きく異なってしまう可能性もあるためです。
一方で2015年度の減益については、リコールの問題が非常に大きくなっています。
この赤字については、連結では減益となっていますが、本田技研工業単独では赤字計上となってしまっています。
それでは、次に平均勤続年数や給与面をみてみましょう。
本田技研工業は平均年齢が44.9歳で平均勤続年数が23.5年となっています。
これらの点から圧倒的に定着性はいいといえるでしょう。
一方で、年収水準については平均的な水準と比べると良い方ですが、圧倒的に高いという水準ではありません。
ちなみに、転職サイトのDODAの調査によると45歳の平均年収は526万円となっていますので、平均的な水準と比較すると年収面は高い水準となっています。
(出典:https://doda.jp/guide/heikin/age/)
まとめ
この記事では、本田技研工業について分析を行ってきました。
特に本田技研工業の歴史を振り返りながら、現在をみていきました。
綿密な企業研究を踏まえて、選考に臨みましょう。